TRAVERSE4「ターザン」
ひときわ大柄な体格とその長髪から、そう綽名(あだな)されていた本間四郎に初めて会ったのは、米替、明善校二年のことだった。九州大学理学部在学中の本間はその年から「久留米合唱協会」と改称された久留米音楽協会合唱団の指揮を託されていた。

また同合唱団から分離した傍示暁了(かたみあきら)指揮の「アリオンコール」も共に50名以上の団員を擁し昭和30年頃まで久留米の合唱活動の黄金時代を形成していた。

戦後の荒廃した市民に潤いを与え、青少年の情操を向上させるべくこれらの合唱運動の他、招聘団体として久留米音楽同好会などが様々な演奏会を企画していたが、資金面もさながら一番の大きな壁は音楽を聴くための会場だった。

今でこそ各地域にホールは林立しているが、当時満足な音響を兼ね備えた本格的なコンサートホールは九州にはほとんど存在しなかった。

ブリヂストン創始者の石橋正二郎氏と石橋幹一郎氏の崇高な理念の元、文化ホールの建設が始まった頃、仏に魂を入れるべくその運営について六人の音楽委員が委嘱された。国武(つめ)生・後藤賢二・本間四郎・木下靖康・傍示暁了・塚本安正。曰く「寝ころび会」の面々である。

久留米に招聘する公演の開催を決定するまでにはあらゆる検討を重ね、長時間に及べば寝ころんでまで議論を続けることから、そう称していたこのメンバーは久留米を音楽の街にしたいとの理想を掲げ音楽活動を続けていた当時気鋭の顔ぶれだ。

「柿落としまでの一ヶ月、手伝うてくれんか」

米替が傍示から声を掛けられたのは昭和38年3月、竣工を間近に控えた石橋文化ホールが急ピッチで最後の仕上げに懸かっていた時だった。(続)




タイトル解説☆
TRAVERSE【トラバース】登山で縦走路にある山の頂上へ向かわず山腹を横ぎること。

カルキャッチくるめ
http://www.culcatch.jp/
※この連載はカルキャッチくるめ通信(June-July 2005)への掲載記事です。


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