宝恵駕まつり 50周年 3月21日、今年50周年を迎えた久留米宝恵駕行列が行われた。

朝から花曇りで空模様が心配されたが、行列が終わる午後3時くらいまで何とかお天気も持ち、無事に市中行列を終えた。お稚児さん30人を乗せた駕篭の他に今年は新しく新調された駕山車と福娘10人も加わり盛況だった。

実は、この行列に参加するのは初めてだったが、いやあ行列の先頭から末尾まで3〜400mは続こうかという大行列。三味線隊などの鳴りもの、中程に参加する地元子供会の太鼓と「ほ〜ぇ、ほ〜ぇ」という元気なかけ声で、商売繁盛のお祭りとしてはなかなか見応えのあるイベントだ。

しかし、途中通っていくアーケード街に点在する空店舗のシャッターは、何とかならないのだろうか。正式なテナントを待つまでの間だけでも、フリーマーケット、様々なボランティアグループの拠点などの非営利活動にオープンに使わせるなど、工夫すればいくらでもアイデアは出てくる。教育的観点から学生を動員する手もあるだろう。

何でも良い。とにかくこのシャッター通りを何とかしないと街に本当の賑わいは取り戻せない。クルマ社会になって市の商環境は大きく変わっている。郊外には大型店舗の出店が相次ぎ、客は皆、クルマで「買い出し」に行く。

しかし、この購買活動はあくまで「買い出し」なのだ。商店街に求められている買い物の要素はそうではないだろう。いくら郊外に大型ショッピングモールが出来てもそこが久留米の顔になることはあり得ない。

街の「顔」とは、その土地の文化の集積であり、人と人とのふれあいこそが「顔」を作っていくものだ。人口密度から割り出したマーケティングによってのみ、これらの商環境をととのえようとすれば自ずから限界が見えてくるだろう。「商店街」とは基本的には「商店主」の寄り合い所帯であり、それぞれが一国一城の主であれば、自ら進んで「損」を買って出ようとする商人など久留米にいるはずがない。

マーケティングによってではない、街としてのプロダクト・アウトを真剣に考えねばならない。・・・と、こういうといつも話に出てくるのは「行政が・・・」という人の褌の話が出てくるが、それではダメなんだ。行政主導で永い経年性がある話を聞いたことがない。何故でしょう(笑)? 大した見ものもない「水の祭典」が何故35年も続いているかおわかりか。

都心部には数年前、六角堂広場が出来た。ここにも云いたいことは山ほどあるが、しかしそれでも最近は予想通り様々なイベントが行われるようになってきた。イベンターの端くれとして、いつも云ってることだが、イベントに来る観衆は「目的客」なのだ。終わればさっさと帰っていく。

イベントで街が活性化するなど大間違いも甚だしい。

イベントは確かに必要だろう。「宝恵駕」も「水の祭典」も素晴らしいイベントだ。本当に価値あるイベントはそこに参加するものの情熱の発露がなければならない。そうして初めて観衆を巻き込んだ相乗効果をもたらす。しかし、「街」として考えるためにはイベントを仕掛けることそれ以前にもっと大事なことがある。

「賑わい」とは一体何なのか。そこを間違えていては進歩はないよ。

久留米に生まれ住んでもう50年も過ぎた・・早いな(苦笑) 私にとってここは大切なふるさとであり、たぶん死ぬまでここにこだわり、そして子供達もここで暮らし、あるいはここから巣立ってゆく。久留米の「顔」を見届けてから死にたいものだね。

・・・宝恵駕のことを書こうとしたけど、長々といらん話になってしまいました。おゆるしを(笑)


過去記事[宝恵まつり 50周年]
[http://www.kurumejin.jp/archives/50200427.html]


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