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1998年の10月から20世紀が終わる2000年の12月まで、久留米の東の「街角の小さな情報誌」として「イーストサイドストリート」を発行していた。毎月1回、タブロイド版1色の2ページもので、発行部数30,000部。同時にインターネット版を毎月更新していた。通巻27号。

この間、記事の企画・編集・製作はもちろん、取材から配付まで一人でやっていた。毎号30,000部だからもちろん全てを一人で宅配していたわけではなく、折込を使っていた。配付していたのは、この小誌のためのスポンサーをしていただいたところと、公共機関に置いて貰うところ約30ヶ所、約3,000部くらいだったかな。

今考えると恐ろしいバイタリティだったなあと思う。

しかも、これが仕事だったかというとそう云うわけでもなく、ただ自分の会社の広告ばかりを作っていることに飽きていたのと、何か自分で情報発信をしたいと思っていたからというのが発端。

今の個人ホームページ花盛りの状況を見ると、きっかけとしては同じようなことを考える人は結構いるんじゃないかと思う。もちろん当初からネット配信は同時にやっていたけど、当時は今ほどインターネットはポピュラーではなく、ホームページを作ると云うことすら非常に稀少な世界だった。どうしても紙媒体をヌキにするのは、ただのセンズリ行為(失礼)としか考えられなかった。それでは嫌だったってことなんだけど、この紙媒体を同時発行していくことの困難さも嫌と云うほど味わった。
eastsidestreet創刊号
よく2年半も続けられたなと思う。まあ、始めた以上、意地もあったんだけどね。毎月2〜3回外へ取材に出かけて、製作は仕事が終わったあとの深夜、印刷屋に渡すための版下作りが1日、さらにネット版の更新がもう1日。さらに刷り上がったモノを配付するのにもう1日。・・・こう考えると、さほど大変ではないようにも思えるが、実際には毎回の企画を考え、記事を決定するに至るまでの時間は計算しようもない。

雑誌編集の仕事は同じようなことだが、全て一人でやるというのはいくらタブロイド版のペラモノだからと云っても限界がある。仕事なら別だけどね。これで収入を得ようなどとは考えもしなかった。

しかし2年半の間の作業と、その間に取材でいろんな人に会ったことは無駄ではなかったし、やっている間は面白さも充実感もあった。締切には苦労するけど、締切がなかったらあっと云う間に廃刊していただろうなと思う。

それから7年。当時からは想像もつかない勢いで瞬く間にインターネットは一般に普及し、ブログという新しいカテゴリーも生まれてきた。今度はもうちょっと気楽に構えてネットオンリーで楽しんでやってみようと思っています。

実は、現在私の住む合川町から半径2km以内に、久留米のほぼ主要な文化・スポーツ施設が集中していることも、この小誌発行のきっかけだったんだけど、随分と様変わりしているところもあり、また新しい久留米の情報を発信していくことにしましょう。



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