
昭和45年には、九州・山口で映画上映活動を行っている団体や世話人と連絡を取り「西日本シネサークル協議会」を発足。この会の発足によって様々な情報が得られるようになっていく。
翌年5月、特別例会として長編記録映画「水俣〜患者さんとその世界〜:土本典昭 監督作品」上映。梶原と米替は九大で行われたプライベート試写を見て即上映を決定する。現地上映後のトップ封切りだった。
この頃はようやく世間に公害という認識が出回り、製造企業は産業排水などに神経を尖らせ始めた頃。当然、財団運営の任にあたる常務からは再考を求められたが、米替は「ATG会員が決めたこと」として上映を決行した。異例の二日間三回の上映は、いずれも多くの観客でうまり、大きな反響を呼んだ。
久留米ATGは文化センター大ホールでの映画上映にとどまらず、様々な企画を行った。センター内の憩いの森でフォークバンド演奏とチャップリンの「キッド」を懸けた「シネマとフォークの広場」など屋外上映も仕掛けている。
またこの頃には「状況劇場(紅テント)」「黒テント」「天井桟敷」など前衛的小劇場が先進的活動を始めていた。
市内の小頭町公園において劇団黒テント公演「嗚呼鼠小僧次郎吉」をプロデュース。その後、東町公園でも同劇団の公演を開催した。
既存の社会・価値観と微妙なズレを感じていた感性豊かな若者たちは、音楽・映画・演劇など様々な媒体で積極的に自己の内なる叫びを模索していく。それぞれの表現は不器用でも、その何かに突き動かされるような圧倒的なパワーは、多くの同世代の共感を呼び込んでいったのだ。

昭和46年には、会報「しねまでっせ」を毎月発行、また上映後には合評会をロビーで行い、映画好きたちの議論は白熱していった。会員数は千二百名を越え、映画の自主上映組織としては我が国最大の人数になっていた。常設上映館とはその趣旨が違うとはいえ、この頃は各家庭にテレビが行き渡り、映画館の展望が必ずしも明るくはなかった時代、興行組合には危機感もあったのだろう。
事実、映画界自体はその後テレビ界の隆盛にも関わらず市民権を得ていくが、既存の映画館は徐々にその姿を消していった。久留米でもついに昨年、市街地から上映館の全てが消えてしまった。現在NPO法人による上映が再開されているが、運営はたやすくない状況だ。
昭和49年、前年から起きたオイルショックは、社会に様々な影響を及ぼす。トイレットペーパー騒動など紙不足は深刻な状況となり、10年間発行を続けていた「石橋文化センターニュース」も休刊に追い込まれる。文化センターとの共催という形で運営を続けてきた久留米ATGも、ついにその活動を終える時が来た。
3月29日。価値ある作品を市民自らの手で選び、上映を続けてきた久留米ATGは最後の例会を行う。最後の作品の名は「ラスト・ショー」。
5年5ヶ月、例会開催58回、上映作品82本。時代の奔流の中、久留米ATGはその幕を閉じた。
各地の自主上映組織で当時のATG作品上映に関わった者たちの中からは、それぞれの地域の中で「ゆふいん映画祭」などの社会的ムーブメントを起こす者も出てきている。
■ タイトル解説☆
TRAVERSE【トラバース】登山で縦走路にある山の頂上へ向かわず山腹を横ぎること。
■ カルキャッチくるめ
[http://www.culcatch.jp/]
※この連載はカルキャッチくるめ通信(February-March 2008)への掲載記事です。
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