「カルキャッチ通信」へ寄稿をはじめて3年越しの連載は計20編。最後の1本は、久留米ATG記事を収めるため倍のスペースをいただきましたが、次年度、久留米文化振興会と統合?ということで、カルキャッチくるめ(ふるさと文化創生市民協会)の解散に伴い、情報誌カルキャッチ通信も廃刊ということになりました。
長くお付き合いいただきありがとうございました。米替さんは文化センター勤務ののち、その後立ち上がった財団法人久留米市観光コンベンション協会の初代事務局長として、久留米の市民祭「水の祭典久留米まつり」を牽引して行かれました。
その他、照明協会・吹奏楽連盟、もちろん山の会も…などなど、文化と深く関わるポジションに常に存在し続けてきました。彼の足跡を通して見る様々な文化人の軌跡は、久留米の文化の軌跡と云っても良いかも知れません。
連載の書き始めには、現在まで連綿と続いている「水の祭典」にまつわる話までつないでいこうと思っていましたが、残念ながら文化センター時代までを書き綴ったところで情報誌のほうが終わってしまいました(苦笑)
「TRAVERSE」のタイトルは、山好きの米さんにちなんで、山頂をまっすぐ目指すそれぞれの文化人に対して、その縦走路をあたたかく見るような裏方人生、様々な文化の下支えをし、仕掛けを創ってきた彼の軌跡がまさに「トラバース」そのものだと感じて選びました。
米替さんを通して語る文化人の軌跡はまだまだほんの一部です。またどこかの誌面でお目にかかる機会が訪れれば幸いです。(鴎)
▼最後のテーマになった久留米ATGの全軌跡を書き残します。
久留米ATG [1968.11-1974.3 例会開催58回 上映作品82本]続きを読む
長くお付き合いいただきありがとうございました。米替さんは文化センター勤務ののち、その後立ち上がった財団法人久留米市観光コンベンション協会の初代事務局長として、久留米の市民祭「水の祭典久留米まつり」を牽引して行かれました。
その他、照明協会・吹奏楽連盟、もちろん山の会も…などなど、文化と深く関わるポジションに常に存在し続けてきました。彼の足跡を通して見る様々な文化人の軌跡は、久留米の文化の軌跡と云っても良いかも知れません。
連載の書き始めには、現在まで連綿と続いている「水の祭典」にまつわる話までつないでいこうと思っていましたが、残念ながら文化センター時代までを書き綴ったところで情報誌のほうが終わってしまいました(苦笑)
「TRAVERSE」のタイトルは、山好きの米さんにちなんで、山頂をまっすぐ目指すそれぞれの文化人に対して、その縦走路をあたたかく見るような裏方人生、様々な文化の下支えをし、仕掛けを創ってきた彼の軌跡がまさに「トラバース」そのものだと感じて選びました。
米替さんを通して語る文化人の軌跡はまだまだほんの一部です。またどこかの誌面でお目にかかる機会が訪れれば幸いです。(鴎)
▼最後のテーマになった久留米ATGの全軌跡を書き残します。
久留米ATG [1968.11-1974.3 例会開催58回 上映作品82本]続きを読む
かもめさんの久留米人的ブログ:福岡県久留米市から発信する地域情報誌
「価値ある映画で、久留米で上映されない芸術的作品などを広く市民に鑑賞してもらう」との主旨で、鑑賞組織を立ち上げるべく、アンケートの回答者を集めて会議を持ったが、肝心の上映路線で大幅に意見が食い違う。路線論争に敗れた者らは憤然と席を蹴って帰ってしまい、残った者で会員組織を確立していくことを確認。安藤と米替は久留米ATG委員長をその中で一番若い梶原龍二に決めたのだ。
ATG(日本アート・シアター・ギルド)。テレビが一般的になり、大手映画会社が興業の成功が得易い娯楽映画中心になっていった頃、ヌーヴェルヴァーグなどの影響によって、日本においても新鮮な芸術映画への志向が高まる中、昭和36年11月に発足した。
石橋文化ホール開館以来、本業の医業の傍ら永きにわたって指揮を執り続けた合唱団活動に留まらず、数々の音楽会の開催、小中学校校歌の作詞作曲など、本間四郎氏が久留米の音楽文化創生に捧げた功績は計り知れない。
「どうぞ音楽をお感じ下さい。総てのメッセージは、それぞれの音楽の中にこめられております」音楽家としてはもとより、すぐれたエッセイストとして名高かった團伊玖磨氏の全国21の会場で行われた「DAN YEAR 2000」公演に寄せてのメッセージである。
平成元年は久留米市制百周年にあたり、前年から米替は様々な企画を提案、本間に久留米の音楽団体の連携を持ちかけた。本間は強く賛同し、かくて10月22日、様々なジャンルの地元音楽家たちが集う久留米音楽連合協議会が発足する。
團伊玖磨・丸山豊コンビの楽曲は、昭和43年の「筑後川」を皮切りにその後、昭和48年「海上の道」、昭和53年「大阿蘇」、昭和59年「玄界灘」とほぼ5年おきに発表されていった。委嘱作品であるこれらの楽曲は、当然の事ながらいつも久留米が初演だった。
昭和43年、本間四郎が指揮を執る音協合唱団は5周年を迎えるにあたり、何とか自分たちのために書き下ろされた合唱組曲が欲しいという願いが高まっていた。それも故郷を題材にしたもので、作詞を丸山豊氏に、作曲は團伊玖磨氏に。はたして團先生が地方のアマチュア合唱団のための作曲など引き受けてくれるのか?不安なままその願いを石橋幹一郎氏に託した。
「日本の百年を歌う」は三部構成で明治・大正・昭和のそれぞれの時代を歌で綴るものだが、楽曲の間にはナレーションが挟まれ、その当時の世相と歌をさりげなく紹介している。そのシナリオには、時代を映し出す鏡としての楽曲がとてもわかりやすくまとめられていて興味深い。













