TRAVERSE ■文化人の軌跡

日本の百年を歌う(1) ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(11)

traverse11 昭和43年、本間が指導する音協合唱団はひとつのプログラムを製作する。題して「日本の百年を歌う」構成/傍示暁了、編曲・指揮/本間四郎、そして朗読には斉田明とともに若林延子がクレジットされている。

ふくさや「食べんと、わからんわからん」の食品CMのおばあちゃんはほとんどの方がご存じだろう。当時RKB放送劇団に所属していた新進気鋭の彼女がこのプログラムのナレーションに指名された。

5月26,27日、石橋文化ホール開館5周年記念で初演されたこのプログラムは明治・大正・昭和を歌で綴るもので、好評を博し、その後音協合唱団の主要レパートリーとして沖縄やハワイなどへの演奏旅行でも公演されていく。

沖縄がまだアメリカの占領統治下にあった昭和45年、音協合唱団は「歌う文化使節」として演奏旅行に向かう。当然パスポートを取得しての海外旅行である。本間らと共に先乗りした米替は、会場に予定されていた那覇市琉球新報ホールを下見して愕然とする。

確かに石橋文化ホール並みの設備は九州では希有な存在だったが、それにしても舞台演出のための音響・照明などの設備がまるでない。壁に簡単に並べられたブレーカー群を眺めながら途方に暮れた米替は、急遽新聞社事業部の担当者に照明助手を依頼した。

「こんにちは」

やってきたのは、バイクの後ろに彼女をタンデムさせてきた、ストローハットのお兄ちゃんだった。訝しげに思いながらも、米替は必要な器材の手配を依頼する。

「まかせてください」

本当に大丈夫か?走り去るバイクを目で追いながら、ともかく仕込みに取り掛かった。現地の募集で集まってきた4人の素人バイトを指導しつつ、悪戦苦闘しながら公演の準備を進めていく。

3月30日。かくして久留米音協合唱団沖縄公演「日本の百年を歌う」の初日がやってきた。



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TRAVERSE【トラバース】登山で縦走路にある山の頂上へ向かわず山腹を横ぎること。

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本間四郎と中村八大(4) ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(10)

traverse.web.10 「久留米出身の中村八大です」コンサートの度にそう語りかけたといわれる八大は、本間四郎との友情、そしてふるさと久留米に対する愛着から数多くの共演を果たし、文字どおり久留米の音楽シーンを牽引し続けた。

平成4年6月10日、数々の楽曲をその小さい手から魔法のように生み出し続けた希代の天才ピアニスト「中村八大」は、静かに鍵盤を閉じた。享年61歳だった。

「翌年の久留米音協合唱団第29回定期演奏会に決定していた楽曲は奇しくもモーツアルトの「レクイエム」でした。それから数カ月後に八大氏の訃報に接することになろうとは、団員の誰一人として知る由もないことでした」(音協合唱団総務:中島道成)

『生きている中村八大』急遽こう題された定期演奏会は、はからずも追悼コンサートとなった。この日の演奏会には東京から永六輔も駆けつけ、想い出の語り部として役を担っている。八大を偲ぶ超満員の文化ホールの観客席を背に、本間はあふれる涙を拭う術もなく指揮棒を振り続けた。

「中学明善で初めて合唱団を組織したが、変声期が多くピアノは常に移調を必要とした。彼はいつも即興で易々と移調演奏をしてくれた。こうなるともう天才ピアニストだ。大変な友達を持ってしまったと思った・・・彼の作品の中に、そして星のように輝いている楽譜の行間にも彼は永久に生きていると信じている。八大さん長い間本当にありがとう。そしてこれからもよろしく」(本間四郎の回想から)

「六・八・九」(永六輔・中村八大・坂本九)トリオによって生み出され、世界を席巻した楽曲は、永遠に人の心を捉えて離さない。ビブラフォンの転がるようなイントロを聴くだけで、今も大人たちの琴線を刺激しつづけるのだ。

traverse.web.10-2

上を向いて歩こう
[Music:Nakamura Hachidai/ Lyrics:Ei Rokusuke/ Song:Sakamoto Kyu]

上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
思い出す 春の日 一人ぼっちの夜

上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて
思い出す 夏の日 一人ぼっちの夜

 幸せは 雲の上に  幸せは 空の上に

上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
泣きながら 歩く 一人ぼっちの夜


思い出す 秋の日 一人ぼっちの夜

 悲しみは 星のかげに  悲しみは 月のかげに

上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
泣きながら 歩く 一人ぼっちの夜
一人ぼっちの夜



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本間四郎と中村八大(3) ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(9)

トラバース9 70年代、日本の世相は大きく変遷していく。大阪万博、浅間山荘事件、沖縄復帰など大きな社会のうねりの中、プロテストソングと呼ばれ、当時の音楽シーンを席巻していた社会派フォーク時代から、井上陽水、荒井由美などの叙情的フォーク、ニューミュージック時代へ。「アイドル」などという言葉がポップス界に登場したのもこの頃だ。

「久留米を音楽の街に」という情熱を持ち「寝ころび会」を中心に音楽鑑賞団体として様々なエンターティメントを企画・招聘してきた音協幹事会だったが、次第に時代のニーズとの乖離を感じ始める。10年に渡って走り続けてきた幹事会は昭和48年、ついにその任を降りることになった。

同年行われた音響合唱団10周年の記念演奏会は多くの人の記憶に残る感動的なイベントになった。三部構成で、一部は声楽家立川清登との共演、二部は丸山豊作詞、團伊久磨作曲の合唱組曲「海上の道」初演、そして三部は中村八大とともに彼のヒットソングのオンパレード。今考えてみてもそれぞれひとつひとつが単独でエンターティメントになりうる超豪華メニューだ。

特に三部は、本場ブロードウェイや宝塚で活躍するニューヨーク生まれの振付家「中川くみ」が合唱団を直接指導、八大トリオの伴奏で、15曲をフルに踊りまくるというミュージカル仕立てで行われた。

八大は一ヶ月以上も前から練習のために中川氏を連れ来久、練習に取り組むという熱の入れようだった。大作曲家團伊久磨をして「私は前座でしたネ」と軽口を発するほどの充実したイベントになった。

「東京でも出来ないステージだよね」八大からこの様子を聞いた永六輔は「久留米は何て贅沢な街なんだ」と舌を巻いたという。本間との友情、そしてもちろん故郷久留米への強い愛着から八大が久留米の音楽シーンに与えた影響は計り知れない。



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本間四郎と中村八大(2) ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(8)

traverse8 中村八大の石橋文化ホール初登場から二年後の昭和43年11月、本間は明善高校管弦楽部第一回定期演奏会のための相談を受ける。「予算はないが黒字が出たら八大さんに差し上げるから出演依頼してもらえないか」曲目はモーツァルト[戴冠式]だという。

「うーん、八ちゃんの事だから母校の演奏会には何とか駆けつけようが、出演料も無しで、おそらく八ちゃんも初めて弾くモーツァルトに、あの多忙な人が練習時間を取ることなどまず困難じゃないか」

ところが、本間からの電話を受けた八大は
「えっ?ボクにモーツァルトを弾かせてくれる?本当?やる、やるよ!一回、クラシックのコンツェルトをやりたかったんだ」
と並々ならぬ決意で即、返事を返した。

演奏会の10日ほど前になると、八大から連絡が来る。

「四郎ちゃん、泊めてもらえる?東京じゃ練習できないんだ」
連日舞台などが続く過密スケジュールだったが、八大は一週間前から東京の予定を全てキャンセルして、本間宅に転がり込んだ。毎日ピアノの前に6〜8時間も座り猛特訓、夜は夜で本間と指揮についての綿密な打ち合わせを行うという念の入れようだった。記念すべき明善高校管弦楽部第一回定期演奏会は文化ホールに満員の聴衆を集め、大喝采のうちに終了した。

その後も八大はしばしば久留米を訪れる。ヒットソングを次々に発表し、特に「上を向いて歩こう」では、スキヤキソングとして全米オリコン3週連続トップという前人未到の快挙を成し遂げた時代の寵児と、本業の医業の傍ら合唱の指導に演奏に、そしてまたコンサート招聘にと東奔西走して音楽に精力をそそぎ込んでいた本間四郎だったが、堅い友情を裏付けるかのように、二人はその後いくつもの感動的な演奏会を実現する。節目の演奏会では数多くの共演をこなしていった。



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本間四郎と中村八大(1) ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(7)

本間四郎と中村八大(1) 本間四郎と中村八大の出逢いは、昭和20年に遡る。

終戦を迎えたその年。四郎は当時本間家が居を構えていた西町亀甲で、父が姉のために運んできたピアノに毎日向かっていた。日本中がまだ茫然自失だったその頃、四郎もイライラをピアノにぶつけるようにそれまで弾いていた学校の歌や軍歌ではなく、クラシック音楽に取り組んでいた。

そんなある日、練習していたシューベルトの曲に合わせて軽快なピアノの音が流れてきた。驚いて塀越しに隣を覗くと、グランドピアノの前に座った小さな男の子が鮮やかなマーチを奏でていた。

中学明善二年、中村八大。中国青島から引き上げ、津福本町の祖母の家に身を寄せていた八大が本間家の隣に越してきたのだ。四郎との初めての出会いである。

新制高校に移行する直前の昭和23年、四郎と八大は隣の久留米高女の講堂を借り、大文化祭を開催。この時のど自慢大会で、八大は即興のピアノ伴奏を行い周囲をあっといわせた…伝説の始まりである。出演者は決まっていたものの、我も我もと飛び入りが続出、興に乗った八大も笠置シズ子の「セコハン娘」を歌ったという。人前で歌ったのはおそらくこれが最初で最後だったのではないかといわれている。八大はこの年を最後に早稲田高校へ転校していく。

米替が初めて八大を観たのはそれから5年後の昭和29年だった。有楽町の日劇に並んで、すでに人気急上昇だった八大の「ビッグ・フォー」に魅入っていた頃だった。

石橋文化ホール初登場となった昭和41年8月10日「中村八大クインテット公演」のステージをサポートしながら、米替は明善時代からずっと聞いていた「伝説の…」が頭から離れることがなかった。すぐ側にいることすら不思議に思えた。

「これが伝説の天才・中村八大か」



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石橋文化ホール創世記(3) ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(6)

米替誓志の軌跡(6)「本間の行くところ合唱団が出来る」といわれるほど精力的に音楽文化創生に取り組んでいた本間は、文化ホール開館以前にも数々の合唱団を指揮、あるいは創設してきた。

本間は開館の翌昭和39年「箏とオーケストラとコーラス」企画の中で早速「久留米女声合唱団」を編成、その後「久留米音協合唱団」として永く本格的な演奏活動を続けるに至った。

またこの年、米替は市民の音楽発表の場としての「音楽祭」を提案、本間もこれに大いに賛同し、10月「第一回久留米音協音楽祭」開催。以後16年間毎年続けて開催された。その後一旦中断するものの平成元年「久留米市民音楽祭」(合唱祭・吹奏楽祭・アンサンブル)として復活、現在も「くるめ音楽祭」として開催され続けている。

石橋文化ホール開館からの約10年間は久留米の音楽文化創生期ともいえる時代だ。当時の歴史を紐解くと、世界的なアーティストの日本公演の会場に国内一流のコンサートホールの名前と並んで必ず久留米の石橋文化ホールが掲載されている。

今では考えられない話だが、福岡と久留米で同じ演奏会があれば、福岡からも観客が来るほどで、シンプルで響きのよい音質を提供するホールと、観賞ばかりでなく市民自ら歌い、演奏し、楽しむという活力を生み出したのは、石橋正二郎、幹一郎両氏の崇高な理念、そしてその意を大いに汲んで活動した本間や米替ら創生期のスタッフの情熱に他ならない。文字どおり久留米発の音楽文化の発信であり、その後この地から輩出するたくさんの文化人を育んだ土壌を創ったといえるかも知れない。

さて、石橋文化センター開園10周年を迎えた昭和41年、久留米音協の例会が行われた文化ホールに一世を風靡した時代の寵児が初めて登場する。

その名は「中村八大クインテット」



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石橋文化ホール創世記(2) ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(5)

TRAVERSE5 「文化センターの米替です」

傍示からの依頼を受け石橋文化ホールのオープンを手伝うことになった米替は「寝ころび会」の面々が参画する観賞団体「久留米音楽文化協会」の事務局長に請われる。この時初めて正式に本間四郎と出会った。その後、久留米の音楽文化創生期を永く担っていくことになる。

昭和38年5月3日。石橋文化ホールは、九州交響楽団による祝典演奏で産声をあげた。「よい音響のホールを」という一点に集中して設計されたこのホールは、その構想通り、十分な反響とムラのない素直な音質で数多くの音楽家の賞賛を受けた。

公演のため久留米を訪れた團伊久磨氏は、ホールを案内する米替に「構想当時、響きの良かった杉並公会堂等に幹一郎さんを案内したが、このホールはウィーンの楽友会館の響きに似た良いホールだ」と語っている。

また、石橋幹一郎氏はその年の冊子において「多目的な用途を詰め込もうとすれば、本来の目的の音響効果を阻害する危険があり、いくら見かけが良くても値打ちはなくなる。多方面からの要望を申し訳ないが黙殺し、とにかく素質の良いホールを創ることに専念した」と述懐している。

九州初の本格的音楽堂となった石橋文化ホール。今でもその音楽的質の高さにおいて全国で群を抜くと云われている。

さて、「一ヶ月間のアルバイト」と文化センター常務理事から念を押された米替だったが、柿落としの10日間16種目のイベントを実施すべく、出演を依頼している各団体やテレビ局などとの打ち合わせを精力的にこなしていた。全ての催事が終了するも

「あと一週間居ってくれ」
「あと一週間…」
が続き、父親からは「もういい加減で辞めろ」と窘められてもいたが、とうとうその二ヶ月後・・・

「文化センターに入ってくれ」

文化振興会石橋文化センター部所属、米替誓志28歳。



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石橋文化ホール創世記(1) ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(4)

TRAVERSE4「ターザン」
ひときわ大柄な体格とその長髪から、そう綽名(あだな)されていた本間四郎に初めて会ったのは、米替、明善校二年のことだった。九州大学理学部在学中の本間はその年から「久留米合唱協会」と改称された久留米音楽協会合唱団の指揮を託されていた。

また同合唱団から分離した傍示暁了(かたみあきら)指揮の「アリオンコール」も共に50名以上の団員を擁し昭和30年頃まで久留米の合唱活動の黄金時代を形成していた。

戦後の荒廃した市民に潤いを与え、青少年の情操を向上させるべくこれらの合唱運動の他、招聘団体として久留米音楽同好会などが様々な演奏会を企画していたが、資金面もさながら一番の大きな壁は音楽を聴くための会場だった。

今でこそ各地域にホールは林立しているが、当時満足な音響を兼ね備えた本格的なコンサートホールは九州にはほとんど存在しなかった。

ブリヂストン創始者の石橋正二郎氏と石橋幹一郎氏の崇高な理念の元、文化ホールの建設が始まった頃、仏に魂を入れるべくその運営について六人の音楽委員が委嘱された。国武(つめ)生・後藤賢二・本間四郎・木下靖康・傍示暁了・塚本安正。曰く「寝ころび会」の面々である。

久留米に招聘する公演の開催を決定するまでにはあらゆる検討を重ね、長時間に及べば寝ころんでまで議論を続けることから、そう称していたこのメンバーは久留米を音楽の街にしたいとの理想を掲げ音楽活動を続けていた当時気鋭の顔ぶれだ。

「柿落としまでの一ヶ月、手伝うてくれんか」

米替が傍示から声を掛けられたのは昭和38年3月、竣工を間近に控えた石橋文化ホールが急ピッチで最後の仕上げに懸かっていた時だった。(続)




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滑落 ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(3)

TRAVERS3「落ちた!」

塚本武(二年生)即死、山北太平(三年生)重傷。救援を呼ぶべく転がるように尾根を駆け下りた米替の頭の中では滑落した二人の仲間への思いがぐるぐると駆け回る・・・

米替をチーフリーダーとする明善高校山岳部は、阿蘇・仙酔狭をベースに鷲ヶ峰で岩登り合宿を行った。翌日から祖母・傾縦走へ移ろうかという合宿最終日、北壁チムニールートで滑落。同校山岳部はじまって以来の惨事になった。

遭難の急報であわただしく動く地元警察の隣には九州山岳会の雄「キタショー」北田正三が営む教会があった。北田はすぐさま地元救援隊の総指揮を執る。特別のはからいで当時時間のかかる一般電話ではなく鉄道電話を使い、米替が真っ先に連絡したのは学校ではなく、三方幹雄だった。はたして三方は学校、OBと連絡、鳥栖や大牟田などの山仲間を糾合して救援に駆けつけた。昭和28年8月11日、米替十八歳直前の夏だった。

水の祭典のパレード待機位置にある三方額縁店は、炎天下で出番を待つ子供達に冷たい麦茶を出すため前日から無償で準備する。店舗改築の時には店の前に水道栓を二個も設置。何故二つも必要かと訊く息子に「子供達に勢い水ば掛けてやらなイカンめぇもん」

「ちょっとでもザイルを引きずろうものなら、容赦なくそれを叱責する小石が飛んでくる。山の三方さんはそんな厳しい人やった。永い岳人生活の中、思えば不思議と一度も直接ザイルを組んだことはなかった。いつも押しつけたような話に男気で応えてくれた事が多かった中、それでも三方先輩が心から楽しんでくれたと信じたい」

■このTRAVERSの企画が始まる直前の平成16年末、三方幹雄氏は他界されました。心よりご冥福をお祈りします。




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ヨットは岩登りのごつ面白か ■文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(2)

TRAVERS2「久留米は青木繁、坂本繁二郎、古賀春江を生み出した土地。それに連なる多くの画家を輩出し、今も久留米で活躍する画家たちが居る。しかし、十人の画家が飯を食えるより百人の日曜画家が居る町の方がすごい。絵を描くことが好きな千人の子供達が居る町はもっと素晴らしい」・・・

文化センター勤務時代、絵を描く楽しさを広く市民に広げるべく「日曜画家スクール」が企画されたが、極めて低額の参加費に協力業者が見つからず、困窮した米替が、三方幹雄に相談した時の口説き文句だった。

三方は後輩の申し出を快諾、昭和44年に始まったこのスクールは翌年には定員をオーバーするほどの活況を呈した。古賀耕児を筆頭に、園田真幸、大石隆、田中睦子、阿美代子、池松末人、合戸国弘など地元洋画壇の気鋭の面々が指導にあたり、昭和46年には早くもこの日曜画家スクールから二科展入賞者が出る。

その後、永く関わることになる水の祭典で「筑後川水上フェスティバル」の企画が持ち上がったときも、米替は三方に相談を持ちかけた。街の真ん中でみんながまつりを楽しんでいるときに、一人離れて筑後川でのイベントを推進する役など誰も引き受け手が居ない。「このイベントを責任もって遂行できるのは先輩しかおらんですよ」

かくして意気に感じたのかまつりの只一人の責任者としてこのイベントを成功させた三方曰く「米替、ヨットは岩登りのごつ面白かぞ」

三方とは山の先輩後輩にとどまらず深い絆を持つ米替だったが、実は昭和28年大きな事件が明善高校山岳部を襲った。

--この項続く--




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